睡眠不足で朦朧とした意識から漏れ出たような。
2011-04-30


禺画像]
若いとき、ある友人がバイクで事故を起こし、
頭の右側を強打した影響で、
左半身が一時的に麻痺してしまった事があった。
 
その時に左の視覚も一時的に無くなったらしい。
素人考えだと、何も見えないのだから、
真っ暗になると思いきや、そうではないのだという。
黒とも白とも付かない、まさに「無」なのだと。
イメージ的には、テレビのホワイトノイズに近いと。
 
むろんあの砂嵐そのものではないのだが、
とにかく感じた事のない色というか感覚なのだとか。
起きている時は、片方の視力になったものの、
ごく普通で特に何も感じられないのだが、
寝る時に目を閉じると、
じわじわとその虚無の世界が広がる。
それが恐ろしくてなかなか寝付けないということだった。
 
この話は臨死体験などでよく聞かれる「お花畑」のごとく、彼の脳が作り上げた幻視かも知れない。
また彼の脚色も交えているであろうから、誰しもが同じ状態になれば、同じように感じるかは分からない。
しかし、ここで「無」の色というか、感じられる感覚という所が実に興味深い。
白は光があふれている状態で、ある意味虚無とはほど遠い。
また黒も、どれだけ漆黒の闇であろうが、それほど途轍もない恐怖を齎す虚無とは言い難いのではないか。
もっと次元を超えたとっかかりの無さ、底無しの虚無感をもたらすものが、真の無なのだろうと思う。
 
おそらく、死というのはその究極の姿だと言えるが、これが途轍もなく恐ろしい。
意識が消え失せ、全てを失う虚無がどのようなものなのか。震災以降、死について考える事も多くなった。
 
しかしこれはまだ、無を感じることのできる自分自身が存在しているような感覚でいるだけなのだ。
その存在自体が消滅するということが、やはり想像の地平を超えている。
不可知なものに恐怖を感じるかどうか、またそれをどのように克服するか、
この辺りが宗教の果たす役割なのだろうが、私にはどのようなものであれ、宗教はおそらく役に立つまい。
哲学書を何冊読んでも、恐怖という原始的な感情を完全に克服できるほど、私の知性が高いとも思えぬ。
 
私が思いつく、この恐怖から逃れる術はただ一つ。考えないことである。
考えさえしなければ向き合うことも無く、平穏に生きてゆける。
考えたところで死そのものから逃れることはできないのだから。
 
と、もっともらしく書いているが、実は普段から何も考えていないのは皆さんもご存知の通り。
徹夜続きの朦朧とした意識の中ではたいしたオチも思い浮かばず、妙なテンションが上がるばかりなのだ。
これからもそんな感じでいくぜ、ヒャッハー!
ヒャッハーって何?
 
[考察<consideration>]
[回想<memory>]

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